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語録 126

 朝または夜半に目覚めて、まず思うことが神のことであれば、その人生は勝利である。夢に神を見はじめたならば、それは勝利以上である。(『幸福論Ⅲ』253頁)
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語録 125

 人生には、まさに信仰と行為との二つがともになくてはならない。しかし行為には、使命の言いつけが必要である。ごくこまかな点にまでおよぶ絶間ない指図が必要だ、と言いたいくらいである。(『幸福論Ⅲ』245頁)
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語録 124

 神の最も偉大でかつこの上なく明白な業も、ひとりでに維持されるのではなく、各世代の、いや、そのひとりひとりの人間の、たえず新しい自由な意志と献身とを必要とする。(『幸福論Ⅲ』242頁)
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語録 123

 聖徒たることは、実に大きな要請であって、―およそこの世にあるかぎりの最大の要請であろう―、ほかに比べもののない「例外的地位」である。聖徒がひとの助けや同情さえも受けずに、苦しみに耐えねばならないのは、その使命にとって当然のことである。そのためにこそ彼らは「聖徒」なのである。なおその上に、ときとしては困難が最後まで付け加わることがある。キリストみずからもそういう最後をとげられた。(『幸福論Ⅲ』238~239頁) 
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語録 122

 もし神がある人に対して、もはや神以外のどのような楽しみも、また、どのような利己主義もうまく行かないように仕向けられるならば、それは神の「選び」と恵みとの最も確実な証拠の一つである。人生においてこのような「不幸」なり、「失敗」なりを経験する人は、自分を幸福だと思うべきであろう。(『幸福論Ⅲ』235~6頁。283頁参照)
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語録 121

 (聖徒たること)それは、ひとえに神に対するより大きな従順、内的生活のより高き純粋さにある。そして、その内的生活は微細な点にいたるまで厳しく神に見守られることになる。ひと言でいえば、われわれの唯一の模範であるキリストにいっそう似たものになることである。たしかに聖徒は不思議な導きを与えられ、多くの危険に対して守られる。(『幸福論Ⅲ』234頁)
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語録 120

 およそ聖徒たることの証明となりうるのは、もっぱら、その人から現われる非凡な力、すなわち次の三つの賜物によるのである。祈りが聞き入れられること(ヨハネ15の7)、病人、とくに精神異常者をいやす、あるいは少なくとも安らかにする力(マルコ16の18)、および罪を赦す力、がそれである。この三つのうちのいずれかを持たない人は、まだ聖徒ではない。(『幸福論Ⅲ』234頁)
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語録 119

 キリストみずからは、神の本質についてヨハネによる福音書4の24および10の34-36に、この上なく明瞭にその考えを述べていられる。ある霊が目に見えぬ形でこの世に住み、また、それが宿るのに完全に適した人間の内部で完全に生きてはたらくかも知れないということが、一体それほどまったく不可解なことであろうか。これこそ、可能な「神学」、ならびに「キリスト論」の全部であり、しかも、それは決して誤ることのないただ一人の師であるキリスト自身から由来している。(『幸福論Ⅲ』231頁)
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2023-01-13

 神は実感をもってするよりほかに捉えようがない。「説明された」神は、つねに人間のたんなる観念にとどまる。人間の思弁や空想の産物としての神ではなく、事実としての、真にはたらき給う神を、実際に経験すること以外にはない。(『幸福論Ⅲ』231頁)
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語録 117

 聖徒たることは、ものを読むことも聞くこともできず、またおそらく福音書から深遠なものを学びとることのない人であっても、十分可能である。神はその人に、神への愛―それは同時に神の存在をより深く認識する唯一の道でもある―を、別の、もっと直接の仕方で授け給うことができるであろう。使徒パウロは、このようなより高い神の認識について、明確な観念を持っていたことを、その著作のなかで示している。それはコリント人への第一の手紙第十三章(この章が有名なのは当然である)においてであり、この個所は、神学的論議のまん中に、さながら別世界から来た一篇の詩のように、きわ立って見える。(『幸福論Ⅲ』207頁)
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