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神の導きによる生活

※神の導きによる生活には次のようなことが見いだされる、とヒルティ博士は言う。(W.ジェイムズ『宗教的経験の諸相』下巻319~321頁、岩波文庫――ジェイムズがヒルティの『幸福論』中の論文を要約引用したもの)

*書物や言葉(時には人)が、それをちょうど必要とするその瞬間に、見えてくるということ。目をつむっているかのようにして、大きな危険の上を滑ってゆき、知ったら人を恐がらせるか迷わせるかするものを、危険が過ぎてしまうまで、知らずにいるということ、――ことに虚栄や肉欲の誘惑の場合にそうであること。歩いてはならない道が、いわば茨の垣根で遮られること、しかしまた逆に、大きな障害物が突然取り除かれてしまうこと。何かを為すべき時が来たとき、以前にはなかった勇気を急に授かったり、それまで隠されていた事柄の核心を悟ったり、どこから来るのか言えないけれども、考えや才能を、その上また、断片的な知識や洞察などを自分自身のうちに発見するということ。最後に、人々は、まるで意志に反してそうせずにいられないかのように、私たちを助けたり、私たちを助けることを拒んだり、私たちに好意を示したり、私たちを退けたりするので、私たちに対して無関心な人々や不親切な人々でさえ、しばしば私たちに最大の奉仕と促しとを与えてくれるということ。(神はしばしば、その導き給おうとする人々から、この世の財宝を、それがいっそう高い目的への努力を妨げようとするその瞬間に、取り上げ給うのである。)
 
*さらにこのほかにも、いろいろ注目に値することが起こるが、それを説明するのは容易でない。しかし、疑う余地のない確かなことは、およそ考えられるかぎり少しの心配も面倒さもなく、今や「開かれたる戸」を通って、もっとも楽な道を、絶えず歩いて行けるということである。
 
*さらにまた、とかく時機を逸して駄目になってしまうのが普通なのだが、別に準備をよく整えていたわけでもないのに、早すぎも遅すぎもしないで、自分で死の用意に家事を整理するということがある。その上、それがまるでなんら重大事でないかのように、完全に落ち着き払っておこなわれる。それはちょうど、私たちが他人の用事をする場合に、普通、私たち自身の用件で行動するときよりも、はるかに落ち着いて行動するのと同じである。また、どんなことでも辛抱して待つことができるということがわかる。これは人生の偉大な技術の一つである。またなにごとも、一つまた一つと、順序正しくやって来るのであるから、先へ進む前に自分の足場を固めるだけの時があることがわかる。それからまた、なにごとも、わたしたちがちょうどそれをなさねばならぬまさにその瞬間に、それもしばしば、まるで誰か第三者が私たちのすぐに忘れてしまいかねない事柄の番をしていてくれでもしたかのように、実に適切な方法で、起こるのである。
 
*しばしば、また、私たちに必要になったものや、私たちが自分のほうから進んでそうする勇気も決心もとうていもてないようなものを、提供したり世話したりするために、ちょうどよい時に、人が私たちのもとに遣わされてくる。
 
*このようなすべての経験を通して、他の人々に対して、いやな、だらしのない、意地の悪い人々に対してさえも、親切で寛大であるべきことがわかる。そのような人々もまた神の御手のうちにある善の道具であり、しばしば極めて有効な道具であるからである。このような考えをもたなければ、私たちのうち最善の人々にとってさえ、つねに平静を保つことは困難であろう。しかし、神の導きを意識していれば、人生における多くのことが、導きの意識をもたない場合とはまったく違って見えるのである。
 
このようなことはすべて、それを経験したことのある人なら誰でも知っていることで、感動をさそうような実例はいくらでも示されることができよう。どれほどこの世の知恵のありったけを費やしても、神の導きによって自然に私たちにやって来るものに達することはできはしない。

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語録 186

 プロテスタントの教会では、神との直接的交わりを重んじることが乏しきにすぎます。そこでは、彼らの説き得る信仰をもってこの世の最高のものと見ていますが、実際は最高のものは恵みなのであり、神が内面的に現われることにほかなりません。神に心を傾けることによって、人は神を得るのであって、神に関する知識や研究によってではありません。(『愛と希望』)         完
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語録 185

 もし人生全体がある意味を持たねばならぬとすれば、われわれの地上生活の最後の時期は、およそ下り道ではなくて、はるかに高い存在の可能をめざすのぼり道でなければならない。これこそ、その人生に対する間違いもごまかしもない審判である。そしてこの審きは老年に達したみなの者がみずから下さざるをえないものであり、それに対する再審理は行なわれない。(『幸福論Ⅲ』374頁)
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語録 184

 旧約はまだ個人としての永世の思想を知らない、という主張を時おり耳にするが、正しい説ではない。とりわけ伝道の書12の7、ヨブ記19の25-27を参照せよ。すでにキリストみずからがそういう説に反対していられる。マルコ12の26・27を参照せよ。(『幸福論Ⅲ』372頁)
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語録 183

 われわれは、あらゆる死者が後になって、みな一様に復活するとは信じない。これでは、われわれに十分な慰めを与えないであろう。むしろキリスト自身の復活と、十字架上の犯罪人にはっきり言われた言葉(ルカ23:43)から考え合わせて、死の直後か、少なくともごく近いうちに、個人として復活するものと信じられる。死後、その他の人たちがどうなるか、われわれには分からない。聖書でさえこれについては多くを語っていないし、その上、ぜんぜん矛盾がないわけでもない。最も確実な約束は、ヨハネによる福音書6の54、11の25・26、17の3である。(ヒルティ『幸福論Ⅲ』370頁)
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語録 182

 このような善悪の純粋な分離や、あらゆる完全に有効な向上の努力は、神に対する信仰から始まる。しかしこの信仰は、ひとがそれに従って生きようと決意しなければ、実際に得られるものではない。したがって、本来すべてのことがこの意志行為にかかっている。もしある人が、おそらく初めはほんの小声で、おずおずと、しかも最も深い内的生活のごくひそやかな所で、「主よ、さあ、わたしの心をどうぞ」とつぶやくか、いや、ただそう感ずるだけでも敢えてすれば、それから先のすべてはおのずからやって来る。その人自身では決して発見することも、選ぶこともできないような、しかもその人に最もふさわしい仕方で、すべてが与えられる。(『幸福論Ⅲ』364頁)
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語録 181

 かずかずの特別な賜物や人生の宝のなかで―しかし、これらはただ授けられるものであって、どんな方法でも決してみずから獲得したり習得したりはできない―とりわけ最大の、かつ最も重要なものは、ヨハネによる福音書15:7と20:21~23に挙げられているものである。これこそ、真に賢明な人が他の一切を犠牲にしても手に入れたいと望む真珠である。(『幸福論Ⅲ』360頁)
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語録 180

 人間が~しかも例外なくひとりひとりが~なしうる最も貴重な体験は、このふたたび見いだした神に自分がよろこばれているという、あきらかな実感である。人間が神をよろこぶのではなく、神が自分のようなものをよろこばれ、またよろこんでくださることができるということ、これこそ立派に成就された人生の正しい完結である。(『幸福論Ⅲ』357頁)
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語録 179

 道徳的世界秩序がゆるぎなく厳存し、これに反する一切の行為は必ず外的な不幸か、内的な不満をもって終る、ということを自ら経験を重ねて悟る以外に道はない。(『幸福論Ⅲ』356頁)
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語録 178

 人生のあらゆる英智の達しうる最後の段階は、神とともにあるか、神から離れているかが、人生における唯一の大切な問題だということを、完全に洞察する境地である。これによって善と悪、よき報いと罰、時と永遠など、普通ではほとんど解決できない諸問題が正しく解明される。理論的認識では、何びともそれ以上に到達することはできない。しかし、実際には、われわれがこの地上にあるかぎり、神の傍らにあることは、いつも同じように続く状態ではなくて、むしろそれは陽の光のように、雲だの、少なくとも霧などにじゃまにされるたびに、それに応じて明るくなったり、暗くなったりしかねない。ただし、あくまでも確固不動の真理は、すなわちこの霊の太陽は実在しており、もし太陽とわれわれとの間にじゃまするものがなければ、それは常に輝いて見えること、また、このじゃまものとは神の意志にそむくわれわれ自身の意志以外のものではありえないこと、である。そしてこれが、従来の神学によって「罪」と呼ばれてきたものである。この根本的真理はまことになんと単純なものであろう。それなのに、この真理に達するのはなんと遅いことであろう。しかもそれは、学識が足りないなどのためではなく、それどころか、あまりにも多すぎるためなのである。(『幸福論Ⅲ』355頁)
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