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語録 169

 われわれが与えられている神の言葉に、なお神の霊が加えられねばならないが、これは一つの賜物であることは明らかである。ひとは自分のうちにこの霊を生み出すことはできないし、またデルフォイの鼎に坐した巫女ピュティアのように外的手段によって、あるいは降霊の呪文によって、無理に神の霊を呼ぶことも、ましてやそれをだれかが「授け」たりもできない。さらに、この霊は人を支配する一つの力であるが、それをひとはほかの方法では獲得できず、また学識や雄弁をもってしてもその力を揮うことはできない。この霊は真理ではなく、また真理の完き確信でもない。そういう確信ならば、たとえば使徒たちはすでに前から持っていた。またこの霊は十分な進歩をとげた信仰でもない。それは善への強い力である。どうしてこのような力がわき出るのか、と問われてもわれわれには答えられない。この力は突然現われて、また同様に突然消え去ることもある。そして、この力を得るための準備と資格についてわれわれに分かっていることは、ただこの力がそれ自身のほかに、われわれ人間を支配するいかなる他の力をも許さないという一と事だけである。自分がこの霊を宿しているかどうかについては、だれにも疑問の余地はない。この霊を宿していることは、この力を感ずる他人の態度から分かるばかりではない。なお、人間や事物の真相を見ぬく全く別の力が与えられることでも分かる。また同様に、精神はもとより身体の全組織をも(しかも往々深刻な沈滞期の直後でさえ)、喜びと力強さとをもって一瞬のうちに満たしうるということでも、それは分かるのである。疑いもなく、このような生命を生みだす霊は、われわれのうちに宿って死を克服し、新しい生命を可能にする。もっと明瞭な言葉でいえば、本来この新しい生命はこれまでの生命には属していないゆえ、この古き生命とともに死ぬことはありえない。これは、永世について与えうる、少なくとも唯一の「説明」であり、この霊を持つ者は、この世の生命を疑わないと同様に、永世を疑うことはできないであろう。(『幸福論Ⅲ』341~342頁)
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