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語録 154

 とりわけキリストは、ただ現在の聖書のなかに見られるような形だけで彼の言葉を宣べ伝えることなど、毛頭考えてはいられなかった。むしろ、来たるべき世代ごとに、それぞれ聖霊に満たされた人々によって、自分の言葉が個人的に代言されることを、はるかに念頭においていられた。そして――これはわれわれのプロテスタントの考え方にやや反するが――もしあらゆる時代に、世論や時代精神や神学よりも信頼できる、それにふさわしく神の認証を得た真理の代言者が、それぞれ見いだされるならば、それは一つの恵みだと認めねばならない。ともかくも、神はつねにそのように配慮し給うたのである。(『幸福論Ⅲ』305頁)
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語録 153

 また、この霊をやどす人々だけが、あらゆる外被をつらぬく人間知を有しており、他の人たちには隠されているものを、狂いのない本能で感じ取るように、見抜いてしまう。こういう人々は総じて事物を、少しの惑いもなく、事実ありのままに見通し、また一般の人たちにはほとんど常に欠けている、真理を言いあらわす能力をも賜わる。(『幸福論Ⅲ』300頁)
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語録 152

 神の霊に従えば、いったい何が与えられるであろうか。まず、精神の健全はもとより、しばしば(つねに、とは限らないが)身体の健康の増進さえ得られる。しかし、いずれにしても次の三つのものは与えられる。第一に、何ともいいようのない生の喜び、つまり、人間やものごとに対する恐怖からの解放(普通ではこれは誰にも得られない)や、地上の幸福の大部分を成している憂いなき境地である。第二に、興奮をともなわない、一種の火のような熱情と生気であり、これもまたほかの道では求めても得られないものだ。第三は、人間に対する力である。世の中で特別の地位に立たずとも個人として権威を有する者が、いつの時代にもいたように、現代でもやはりいる。そういう人からは、何か生気があふれ出て、他の誰にも従わない人たちさえ、この人にはよろこんで従うものである。(『幸福論Ⅲ』299~300頁)
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語録 151

 ひとは神の霊にすすんで従う心構えでなければならない・・・この霊(神の力)の指揮下に入る場合は、敵あるいは味方の状況を顧みることなく、軍隊式の即座の服従が必要である・・・気をつけよとの促しを心に聞いたならば、その都度これに従わねばならぬ。日常生活からの譬えを用いれば、電話のベルに耳を澄ますのと同じである。さもないと、そうした促しは長い間ふたたび訪れないことが多いからだ。(『幸福論Ⅲ』299頁)
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語録 150

 最後にこの霊は、永世に対する唯一の、まったく確実な保証でもある。なお、この霊を受けるためには・・・およそ神とその霊が存在し、神はこの霊をとおして地上のわれわれのもとに宿ることができる、という確固たる信仰がなければならない・・・あなたは信じようと欲し、それを願い、そのために他の一切を犠牲にする覚悟をしなければならない。(『幸福論Ⅲ』298頁)
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語録 149

 しかし、この霊は人間をよく知っていて、欺かれることがない。たんに奇蹟を行ったり、華々しいことをしたいためにこの霊を得たいと願う者をも、それはよく知っていて、そのような人のもとには訪れない。また、この霊を受けるにはまだ弱すぎて、ふたたび背きそうな者にも、与えられない。なぜなら、この霊をさらにもう一度授けられることはむずかしいからである。(『幸福論Ⅲ』297頁)
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語録 148

 ひとはこの霊が訪れるのを待っていなければならない。このことは、1800年前と全く同じである。人間の心の状態が、それを迎えうるまでに成熟し、それを願う気持が切実であれば、おそらく直ちにこの霊は訪れるであろう。しかし、いずれにせよそれは純粋に神の賜物である。あらゆる人が、学問のあるなしにかかわらず、老人でも若者でも、男でも女でも、みなこの霊を受けることができる。この霊は人間のあいだに少しも外的な差別を設けない。(『幸福論Ⅲ』297頁)
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語録 147

 まず第一に、ひとはこの霊を自分で獲得することができないということである。また、この霊は生まれつきの才能ではなく、あるいは人間的な伝承によって到りうるものでもない。それは外からやってくる事実であって、それ自体としては説き明かしがたいものである。しかし、この霊が与えられるとき、それはキリスト教の最上の、かつ唯一の完全な証しである。この霊を持つ者は、もはや一瞬たりともキリスト教の真理性を疑うことはない。(『幸福論Ⅲ』296頁)
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語録 146

 この霊だけが、人間のうちに完全なキリスト教の確信を植えつける。特に、キリストを救い主として認めることは、彼の人間の側からの研究や考察の題目ではない。(『幸福論Ⅲ』295頁)
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語録 145

 キリスト教の根本思想によれば、世界はいかにも自然の出来事の総和ではあるが、その自然のはたらきは神の霊と、この霊によって生かされる人間の精神とによって、規定され変更されうるものである。(『幸福論Ⅲ』294頁)
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