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語録 60

 異常なものを見たり聞いたりすることについて、あなたはもっと多く知りたいと望むであろうが、私にもそれを詳しく説明することはできない。とにかく、聞くのは心で聞くのである。しかし、それはいつもきわめて明瞭な言葉であって、たいてい聖書のなかの言葉である。私はすでに十四歳の時にそれを経験したが、しかしながく中断したこともあった。異常なものを見る方は、それにくらべて晩くやってくる。これは、その時により多少の明瞭さのちがいがあるが、内的映像(イメージ)の一種の具体化である。聞くのも見るのも、理由がないわけではないが、いつも全く思いがけなくやって来る。だから、そういうことを人為的に喚び起そうとするのは、冒瀆的な行いである。こういう事柄について語ることすら、私にはふさわしくないように思われるし、それを叙述しようとしても決してうまくゆかないであろう。それに、こういうことはすべて全く不必要でもある。異常なものを見たり聞いたりするのは、一つの賜物であって、それを経験した人には驚嘆すべきものであり、しかもただその当人にとってのみ意義あるものである。だから、あなたはそれについてこれ以上深く考えない方がよい。このようなことは人生の説きがたい事柄に属するが、いわゆるアディアフォラ(どちらでもよい事)の一つである。固い信仰に基づいて正しく行動することの方が、はるかにまさっている。そういう立場に立っている人は、このような異常なものを必要としない。それは、全く特別な状況における、神の例外的な助けにほかならない。ひとが神を信じ、それが口先きだけのことでないなら、唯物論的世界秩序においてはただ不可能としか思えない多くの事が当然のことになってくる。(『眠られぬ夜のためにⅡ』69頁)
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