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語録 64

 キリスト教の最初の時代に現れたあの霊的な能力が、今でも存在しうることは、否定できない。第六感とか透視力とか呼ばれるものも、やはりありうるものであって、普通には目に見えないものや耳に聞こえないものが、そういう能力のある人たちには、往々知覚されるのである。こういう能力は、きわめて慎重に取り扱うべきものである。タボル山上で使徒たちが見た事も、そういうふうに説明せらるべきであるが、ことキリストの復活に関しては、同じような説明はできない。人間が体験しうる最高最善のことは、透視などではなくて、神のそば近くあるという実感であって、これはそのような異能とは全く無関係である。(『眠られぬ夜のためにⅡ』86頁)
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語録 63

 人生で大切な事は、あなたが「真理のみ霊」(ヨハネ14:16・17)を持つことである。そうすれば、それはどんな過誤をもおかさぬようにあなたを守り、時代精神の誘惑や世論の影響に対してあなたを安全にしてくれるであろう。(『眠られぬ夜のためにⅡ』41頁)
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語録 62

 苦難に臨んだとき、キリストは実際、彼みずからが己について語った通りのものであることが分かった。すなわち、彼は並はずれたお方であって、その「本性」は決して「説明しえない」ことである。(『眠られぬ夜のためにⅡ』81頁)
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語録 61

 あなたの基督教に対する確信が一旦ある段階に達すると、教理論の研究など大して役に立つものではない。このとき神がそれを欲し給うならば、超感覚的生命についてのむずかしい諸問題に関して、一瞬のうちにはっきりした解明を与えられるであろう。(『眠られぬ夜のためにⅡ』83頁)
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語録 60

 異常なものを見たり聞いたりすることについて、あなたはもっと多く知りたいと望むであろうが、私にもそれを詳しく説明することはできない。とにかく、聞くのは心で聞くのである。しかし、それはいつもきわめて明瞭な言葉であって、たいてい聖書のなかの言葉である。私はすでに十四歳の時にそれを経験したが、しかしながく中断したこともあった。異常なものを見る方は、それにくらべて晩くやってくる。これは、その時により多少の明瞭さのちがいがあるが、内的映像(イメージ)の一種の具体化である。聞くのも見るのも、理由がないわけではないが、いつも全く思いがけなくやって来る。だから、そういうことを人為的に喚び起そうとするのは、冒瀆的な行いである。こういう事柄について語ることすら、私にはふさわしくないように思われるし、それを叙述しようとしても決してうまくゆかないであろう。それに、こういうことはすべて全く不必要でもある。異常なものを見たり聞いたりするのは、一つの賜物であって、それを経験した人には驚嘆すべきものであり、しかもただその当人にとってのみ意義あるものである。だから、あなたはそれについてこれ以上深く考えない方がよい。このようなことは人生の説きがたい事柄に属するが、いわゆるアディアフォラ(どちらでもよい事)の一つである。固い信仰に基づいて正しく行動することの方が、はるかにまさっている。そういう立場に立っている人は、このような異常なものを必要としない。それは、全く特別な状況における、神の例外的な助けにほかならない。ひとが神を信じ、それが口先きだけのことでないなら、唯物論的世界秩序においてはただ不可能としか思えない多くの事が当然のことになってくる。(『眠られぬ夜のためにⅡ』69頁)
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語録 59

 神に導かれる人たちの一つの特色は、彼らが学ばねばならぬ幾多の事柄を、夢のなかでも体験し、知りうることである。これによって彼らは、現実の生活と同じような感銘を受け、この人生経験を、たいていの場合その警告を、ほとんど現実の体験と同様に、よく記憶にとどめておくことができる。神の導きは、まことにかすかな、かつ微妙な多くの暗示から成り立っており、人が即座にそれに聴き従うならば、非常におだやかな導きである。だが、すぐに従わなければ、警告はいくぶん厳しいものとなってくる。(『眠られぬ夜のためにⅡ』67頁)
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語録 58

 一体、神はいかなる価値と成果とをあなたの人生に与え給うのであろうか。「わたしの恵みはあなたに対して十分である」(Ⅱコリ12:9)。この恵みこそ、およそ神のあらゆる賜物のうち最上のものである。この恵みは、この人生の勝利賞であり、授けられたものであるが、しかも私たちによって達成され、戦いとられたものである。(『眠られぬ夜のためにⅡ』61頁)
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語録 57

 「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」(申命記6:4―5)。これに対してあなたが、「はい、主よ、わたしはただあなたの恵みによってそうすることができます。あなたとわたしの間には、もはや何もさえぎるものがなく、わたしにはこれ以上のよろこびはありません」と、言うことができるなら、あなたはすでに人生の目的を達したのである。なおそのあとも、神が、もはやなんの目的もないこの人生からあなたを召さないなら、それはあなたがまだ神に従う生活の可能性とその成果とを他の人たちに手本として示しながら、生活するためである。そして、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。」(マタイ22:39)―先のいましめに、キリストはこのいましめをつけ加えられた。(『眠られぬ夜のためにⅡ』60頁)
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語録 56

 キリストがニコデモとの対話(ヨハネ3:8)の中で語っているように、神の霊は思いのままの時に、思いのままのところに、風が吹くように行くのである。あなたが霊を呼び寄せることはできない。霊があなたを召すのである。あなたはいつでも、そのようなお召しがあれば、一切をさしおいて直ちにそれに従う覚悟をしていなければならない。というのは、それは、夜の静かな時ばかりでなく、時には丁度多忙をきわめている瞬間にも、訪れることがあるからだ。その時こそ、「しもべはききます、お話しください」(サム上3:10)と言うべき時であり、その度ごとに、あなたが真と善とにおいて、大きな躍進をとげる時である。(『眠られぬ夜のためにⅡ』59頁)
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語録 55

 人間の真の偉大さは、その人が善の完き道具、あるいは―もっと明確にいえば―彼を通して語りかつ行い給う、神の霊の完き道具である、という点にある。その人がこのことを自覚すればするほど、彼はますます確実に己の道に徹し、いよいよ多くの事をなし遂げるであろう。たとえ世間の人が全然彼を理解せず、それともただ部分的に、しかも徐々にしか、理解しない場合でも。非常によい働きをした人びとすらも、たいていはその死後になって初めて世間に理解されたにすぎない。生存中は、彼らの自然的人間のある性質が、その内に宿る霊的人間の働きを妨げることが多かったのである。(『眠られぬ夜のためにⅡ』50頁)
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