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語録 4

 われわれの内的人間が外に現われている人間とどのような結びつきにあるかは、われわれにはまだ十分に理解されていない。しかし神の感化を受けうるのは、ただ内的人間だけである。聖餐を受ける式も、この内的人間に向かってなされるのであって、外的人間に対してではない。そのかぎりにおいて、ルターとツウィングリの聖餐論争は、どちらも事柄の本質にふれるものではなかった。結局ルターの主張が正しかったが、彼も事柄をあまりひどく感覚的に解しすぎた。聖餐はそれ自体一つのきわめて現実的な力を持つものであって、単に「しるしと象徴」や、過去の事柄の「証印」などではない。それは一つの霊的な力であって、霊的な内的人間に向けられるのである。キリストの聖餐についての言葉も、内的人間の外における化体を意味するものでは決してなかった。外的人間にとっては、パンとぶどう酒は、それが自然にあるがままのものである。しかし内的人間にとっては、それらはキリストの霊的本性を分かち与える力を持つのである。聖餐式はただ教会の儀式にすぎず、本来なにびとにも現実的な助力を与えるものではない、という現代のあまりに分別くさい考え方よりも、むしろカトリックの、またルターの、見解に従う方が、一層真理に近づくことができる。(『眠られぬ夜のためにⅠ』58頁)  
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