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語録 5

    恩寵の選び
あなたのみ業のためにこの私を
永遠より選び定められたお方よ、
そのしるしとして私に力をお授けください。
心いさんで働く者となしてください。
あなたの命令をすすんで果たすようにお導き下さい。
願わくば、あなたの大いなるみ業がなしとげられんことを。
ただ信仰に生きる者のみが
かくも美しく重き運命を負うことができます。(『眠られぬ夜のためにⅠ』69頁)

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語録 4

 われわれの内的人間が外に現われている人間とどのような結びつきにあるかは、われわれにはまだ十分に理解されていない。しかし神の感化を受けうるのは、ただ内的人間だけである。聖餐を受ける式も、この内的人間に向かってなされるのであって、外的人間に対してではない。そのかぎりにおいて、ルターとツウィングリの聖餐論争は、どちらも事柄の本質にふれるものではなかった。結局ルターの主張が正しかったが、彼も事柄をあまりひどく感覚的に解しすぎた。聖餐はそれ自体一つのきわめて現実的な力を持つものであって、単に「しるしと象徴」や、過去の事柄の「証印」などではない。それは一つの霊的な力であって、霊的な内的人間に向けられるのである。キリストの聖餐についての言葉も、内的人間の外における化体を意味するものでは決してなかった。外的人間にとっては、パンとぶどう酒は、それが自然にあるがままのものである。しかし内的人間にとっては、それらはキリストの霊的本性を分かち与える力を持つのである。聖餐式はただ教会の儀式にすぎず、本来なにびとにも現実的な助力を与えるものではない、という現代のあまりに分別くさい考え方よりも、むしろカトリックの、またルターの、見解に従う方が、一層真理に近づくことができる。(『眠られぬ夜のためにⅠ』58頁)  
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語録 3

 信仰に入れば、人その人が全く別人になる。信仰以前と同じ人間ではなくて別の人間が、前とちがって考え、ちがって行動するようになる。しかしそれには、まず元のままの(古い)人間が思い切って最初の「暗がりへの跳躍」を試みなければならない。そうするためには、もちろん、アウグスティヌスやカルヴァンのいわゆる「恩寵の選び」が必要である。しかしそれは、すべての人間に生涯に一度や二度は必ず与えられるものであり、その時それをとらえて生かさなければならない。(『眠られぬ夜のためにⅠ』52頁)
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語録 2

 神の恩寵にあずかっている事実は、普通、次の二つのことではっきり認められる。まず第一に、往々全く突然、なんらかの外的原因もなく現われてくる超地上的な喜びによって。しかし一層確かなしるしは、そういう人が、エゴイズムと結びついた事柄では決して成功せず(他の多くの人たちはいつもうまくいくのに)、むしろ困難な事、常ならぬ事では不思議と立派に、しかもたやすく成功することである。ともあれ、自分がこの恩寵にあずかっているかどうかを、反省するのは無駄なことである。だれでもそれを心から願い、他の人生の宝を一切なげうってそれを得ようと決意するひとは、それ以外の犠牲や準備なしにも、恩寵を受けることができる。いや、そういう人はすでにそれを受けているのであって、やがて上に述べたしるしも現われ、まもなく疑う余地がないほどになる。(『眠られぬ夜のためにⅠ』45頁)
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語録 1 

 およそ聖職にある人たちを評価する場合、われわれ平信徒にとって主として標準となるのは、彼らが次のような偉大な宗教的能力のいずれかを備えているかどうかである―すなわち慰めの力、効果ある祈り、罪の赦し、預言の能力、一層正確にいえば現在と未来に対する正しい洞察能力、いいかえれば真理のみ霊を宿しているかどうかということである。少なくとも、以上の諸能力のいくらかを備えていると認められないような聖職者のどんな指導にもあなたは信頼してはならない。すべてその他のこと、たとえば神学的博識、教会への熱心、説教の才能、その他のあらゆることも、ただ第二義的なものにすぎず、ときには、上に述べたような能力を受けるのに、妨げとなることさえある。上述の諸能力は学んで得られるものではなく、まして、なんらかの聖職授与式によって与えられるものでもない。それは神の直接のおゆるしによるのであって、これは昔も今も変わらないし、また、どんな教団においても可能なことである。(『眠られぬ夜のためにⅠ』43頁)
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