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語録 167

 神に向けられた意志と、魂の底にしっかり根をおろした神との結びつきとは、人間が到達しうるところの、一つの完全さであって、そこからしだいに増してゆく精神の平安も生まれてくる。この境地は、預言者イザヤが「婚姻の地」と呼んだものであり、魂は長いあいだ荒野をさすらったのちに、ついに、しかも永久に、そこへ入って行くのである。これは段々に浄められていく人間が、その地上生活の最後の段階において到達しうる境地であり、また、より高くしつらえられた来世の存在への、まったく自然な過渡期を成すものである。ここに到達するのは、不幸と試煉の「燃ゆる炉」のなかで最後の大きな熔かしが行われた後のことである。つまりそれは、まずこの試煉が神への信仰によって克服され、人間の「利己性」のあらゆる要素がおよそこの世で可能なかぎり完全に除かれ、かつ滅ぼされた後に起こるのである。預言者がベウラ(配偶)の地と呼び(イザヤ62:4)、そしてバンヤンが「天路歴程」第16章で実になつかしそうに描いているこの境地は、いずれにしても実在するものであり、それはまったく独特の性質をもっている。そこに達するには、中世の神秘家が「ほろびの荒野」と名づけた極めて暗澹とした時期を経なければならないし、また、そこに滞在するのは通常ごく短い期間で、やがてそのあとにはこの人生からの完全な別離がやって来るので、そこに入ることができた者もたいてい、その体験を詳しく書きしるす興味も暇もないからである。(『幸福論Ⅲ』335~337頁)
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語録 166

 わたしのために考えるがよい、わたしはおまえのために考えてあげよう。(『幸福論Ⅲ』334頁、ベルニエール=ルヴィニの言葉)
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語録 165

 沈着な魂に向かって主はしばしば語り給う(シエナの聖女カタリナに語られたように)。(『幸福論Ⅲ』334頁)
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語録 164

 神に身を委ねることの楽しさよ。それを体得したものは、霊の偉大な自由について狂喜を覚える。これは実に最良の心境である。これによっていかに偉大なものが心のなかに生み出されるか、誰も口には言えない。(『幸福論Ⅲ』334頁、ベルニエール=ルヴィニの言葉)
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語録 163

 わたしは時おり、自分があまりにも怠慢で、あまりにも行動しないのではないかと心配する。しかしわたしが考えなくも、神が万事配慮してくださることを、いつも経験する。(『幸福論Ⅲ』334頁、ベルニエール=ルヴィニの言葉)
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語録 162

 人生はみじめで、痛ましい。われわれは神の姿をいわば幕の向こう側にしか見ない。われわれのまことの生活は、現前し給う神との聖なる交わりにある。これによって魂はここちよい平安のうちに固められ、深い平和に満たされる。神の召命を受けることなしには、あるいは神が促し給うことなしには、なに事にまれ、よきわざをさえ企ててはならない。それゆえ、われわれは神のみ心をさとりうるよう祈願し、おのれの意志を捨てて神の指図を待たねばならない。そのような営みは、魂のなかに何の影をも残さないのである。(『幸福論Ⅲ』333頁、ベルニエール=ルヴィニの言葉)
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語録 161

 大きな内的進歩はすべてみなわれわれにおいて起こる出来事であって、それがどうして起こるかは、われわれには分からない。われわれはただ、それを喜んで受け入れるか、それともそれに対して受身の態度をとるか、あるいはそれに逆らうかするしかできない。この最後の態度を阻止するために、神はしばしば長いあいだにわたって、そのような出来事を与えられるが、しかしまた、多くの人に対しては全然それを与え給わない。(『幸福論Ⅲ』330頁)
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語録 160

 神の実在のまことの証拠は、善の障害、つまり先天的あるいは習慣的な悪の傾向(これに対してこれまでその人は戦ってきたが、つねに徒労であった)から、神の力がしばしばただ一瞬の間に、しかも永久にわたって、人間を解放しうることである。この場合、その人はこのことを一つの出来事として、また、これまでしばしば試みながら無駄であった自己改善の決意とは全然異なるものとして、感ずる。このことについては思い違いは絶対に起こらない。これが「キリストによる救い」の意味である。(『幸福論Ⅲ』327頁)
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語録 159

 その中でウェズレーは次のように至当な言葉を述べている。「数かぎりない誤りのもとは、愛が神の最高の賜物であり・・・あらゆる幻視、啓示、顕現などは愛に比べれば取るに足らぬということを深く考えない点にある。宗教においては、これにまさるものは何一つなく、実際これより外に何もない。それゆえ、あなたは次のことを心に銘じなさい、神があなたをすべての罪から救い給うた瞬間から、コリント人への第一の手紙第13章に誌されている、あの愛を増すこと以外に努めてはならぬということを。あなたが死んでアブラハムのふところに送られるまでは、これより高くへ到ることはできない。」これは並みなみならぬ真理であり、とくに「より高きをめざす」人々にとっては真理そのものである。しかし、フレッチャーがその著「キリスト教徒の種々の段階への実際的応用」で、これに付け加えている制限を見のがしてはならない。「獅子や熊を殺し給うたお方、あなたのためにあれほど偉大なことをなし給うたお方が、いまやその祝福の冠たらしめるために、あなたのなかのゴリアテをも殺し給うた。ダビデの勝ほこる子の前に、野心に満ちた不信の自我は倒れてしまった。肉の心は切り取られ、聖霊による心の割礼があなたの胸のなかで完全に行なわれた。いまや神の国があなたのうちに建てられた。」(『幸福論Ⅲ』327頁)
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語録 158

 この信仰と生活の進歩は、単に知識や思考力が増すことではなく、しばしば激しい抵抗や苦痛のもとで具体的な何ものかが加わることである。極めて明瞭に気づかれることは、今や前と異なった状態が生じ、以前にはできなかったことができるようになり、また長い間いたずらに求めていたものや、あるいはただ持っているつもりだったものが、突然ほんとうに得られることである。だから、聖書がこの前進を新生にたとえているのは至当である。自然のままの人間は決して変わらない。あくまで利己主義者であり、享楽主義者のままである。この点では、唯物論や悲観論の主張はまったく正しい。人間は教養を得ても、ただいっそう洗練されるだけで、より善くなりはしない。しかし、そのような自然の人間とならんで、神の力によって別の人間が成長し、強くなっていくことは可能である。そしてこの新しい人間が、たえず自然の人間と戦い、これを屈服させ、しだいに死滅させていく。他方、この新しい人間はますます力と喜びにみちて、神と結ばれた生活に入っていくのである。(『幸福論Ⅲ』325~326頁)
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