SSブログ

語録 177

 真の幸福に達する人々の内的生活史は、一般に三つの段階を持っている。まず、イザヤ書45の22に言う、神を「仰ぎのぞむ」ことから始まり、マタイによる福音書6の33の言葉をもって実行期に入り、やがてヨハネによる福音書15の7をもって目的に到達する。それ以後は、もはや決して内的満足に欠ける気遣いはない。(『幸福論Ⅲ』349頁)
nice!(0)  コメント(0) 

語録 176

 ひとは祈りに対する神の答えが聞えなくてはならない。そのためには普通の「祈る人」たちよりもかなり鋭い耳を持ち、我欲の少ないことが必要である。(『幸福論Ⅲ』349頁)
nice!(0)  コメント(0) 

語録 175

 神は誠実な心を持つすべての者に、詩篇(81の10)の詩人の口をとおして、次のように告げていられる。「わたしはエジプトの国からあなたをつれ出したあなたの神、主である(これはあなたが願うかも知れぬどんなことよりも、はるかに重大なものである)。あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう。」もしわれわれの心がすっかり神のものとなっているならば、われわれは最大のことを願ってよろしい。(『幸福論Ⅲ』349頁)
nice!(0)  コメント(0) 

語録 174

 このような霊の力は、期せずしておのずから人々に及ぼす感化(これこそ人間の真の偉大さの目じるしである)を別とすれば、祈りの力づよさにおいて発揮される。祈りがわれわれ自身の精神から出るのでなく、この霊から出る場合にのみ、祈りの力は全く真実の力となり、普通の、いわゆる「自然的」な過程では変えられるはずのない事物を、変えることができる。一度これを経験したことのある人ならだれでも、自分の生涯からその明らかな実例を挙げることができる。しかもこのことは聖書の教えとも全く一致するものであり、すでに旧約の考え方にもかなっている。もし神が人々にその願いを叶え得ないか、叶えたくないならば、まず彼らに命じてそれ以上願わないようにさせ給う。あなたは自身で神との率直な交わりと近づきとを求めるがよい。そうすれば、神が僕らに、あなたに告ぐべきことや為すべきことを、命じ給うであろう。(『幸福論Ⅲ』347頁)
nice!(0)  コメント(0) 

語録 173

 もう一度ここで強調しておきたいのは、この霊がいわゆる「良心」とはまったく別ものだということである。われわれはさらに、われわれからすっかり独立した、ごまかしの利かない霊が存在することを知らねばならない。この霊は、言いくるめられることなく、われわれに力づよく警告し、われわれを支えて毅然たらしめ、それも生涯の最良の時でなく、最悪の時にもそうであり、またわれわれがもともと欲していない事をもほとんど強制的に行なわせることができる。(『幸福論Ⅲ』346頁)
nice!(0)  コメント(0) 

語録 172

 およそそのようなことは、元来もはや信ずるということではなくて、この世の短い限られた生命と存在を越えた或るものをかいま見ること、少なくともそれを生きいきと体験し、実感することである。これは明らかにキリスト自身が持っていたあの信仰であり、またキリストがこれによって世に勝ち、それのみが神と一体であると宣言することのできた、あの信仰である。(『幸福論Ⅲ』344頁)
nice!(0)  コメント(0) 

語録 171

 すべて真に非凡なものとは、普通の自然のままの人間的特質の枠内でただいくらか程度が高いもののことではなく、全然別のもの、人間に他から与えられねばならぬ別の「新しい心」のことである。(『幸福論Ⅲ』344頁)
nice!(0)  コメント(0) 

語録 170

 ブース夫人はそれについてこう述べている。「あなたのうちにほんの僅かでも不従順や、否定したい気持や、あるいは秘密にされていても反抗心の名残をとどめるかぎり、あなたは何ごともなしとげえないであろう。この賜物は、神がほんとうの僕たち、すなわち神に真心をもって仕える人々に授ける、特別の恵みの賜物である。」(『幸福論Ⅲ』343~344頁)
nice!(0)  コメント(0) 

語録 169

 われわれが与えられている神の言葉に、なお神の霊が加えられねばならないが、これは一つの賜物であることは明らかである。ひとは自分のうちにこの霊を生み出すことはできないし、またデルフォイの鼎に坐した巫女ピュティアのように外的手段によって、あるいは降霊の呪文によって、無理に神の霊を呼ぶことも、ましてやそれをだれかが「授け」たりもできない。さらに、この霊は人を支配する一つの力であるが、それをひとはほかの方法では獲得できず、また学識や雄弁をもってしてもその力を揮うことはできない。この霊は真理ではなく、また真理の完き確信でもない。そういう確信ならば、たとえば使徒たちはすでに前から持っていた。またこの霊は十分な進歩をとげた信仰でもない。それは善への強い力である。どうしてこのような力がわき出るのか、と問われてもわれわれには答えられない。この力は突然現われて、また同様に突然消え去ることもある。そして、この力を得るための準備と資格についてわれわれに分かっていることは、ただこの力がそれ自身のほかに、われわれ人間を支配するいかなる他の力をも許さないという一と事だけである。自分がこの霊を宿しているかどうかについては、だれにも疑問の余地はない。この霊を宿していることは、この力を感ずる他人の態度から分かるばかりではない。なお、人間や事物の真相を見ぬく全く別の力が与えられることでも分かる。また同様に、精神はもとより身体の全組織をも(しかも往々深刻な沈滞期の直後でさえ)、喜びと力強さとをもって一瞬のうちに満たしうるということでも、それは分かるのである。疑いもなく、このような生命を生みだす霊は、われわれのうちに宿って死を克服し、新しい生命を可能にする。もっと明瞭な言葉でいえば、本来この新しい生命はこれまでの生命には属していないゆえ、この古き生命とともに死ぬことはありえない。これは、永世について与えうる、少なくとも唯一の「説明」であり、この霊を持つ者は、この世の生命を疑わないと同様に、永世を疑うことはできないであろう。(『幸福論Ⅲ』341~342頁)
nice!(0)  コメント(0) 

語録 168

 神の霊はすべての時代にひとしくあらゆる人に臨み、また現代人の生活にも宿り給い、その人をば必要なすべての真理へ導こうとし、かつ導くことができるものであって、このような聖霊と歴史上の神の言葉との結びつきに、キリスト教全体の、および個人のキリスト教生活の、「仕組」(システム)が存するのである。(『幸福論Ⅲ』339頁)
nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。